常に自分自身と向き合い、物事の本質と根源に立ち向かい、アイデンティティをさらけ出す。
そんな活動をしている、「富士魂」をもった、アーティスト、クリエイター達の声を聞く。
米・NYで絶賛され、世界でも注目をされているパフォーマンス「Blast!」に、日本人として唯一、正式メンバーとして参加されているルーディメンタルドラマー、石川直さんにインタビュー。自分の奥底に流れている、「なにか違う」という思い。その正体を聞くことができました。
●ドラムを使った現在のパフォーマンスを始めた、そもそものキッカケはなんだったのですか?

ドラムプレイヤー、パーカッショニスト等、様々な呼ばれ方をしているんですが、正式には「ルーディメンタルドラマー」というんです。これは、所謂サウンド、音楽の中のリズムセクションというだけでなく、マーチングスタイルの中での役割として「魅せる」という要素も含めたプレイヤーの呼び名なんですね。ルーディメンツという技をこなしながらドラムを叩いて演奏をする。もともとは軍隊式の様式の中で生まれた「コースタイル」というバンドの中の役割なんです。 ドラムとの出会いは意外と唐突なんです。僕は中学生の終わりの頃に、父親の仕事の関係で一家で渡米してるんですね。で、その流れで現地の高校に入学をしたんです。向こうの学校では、必修の科目以外にも選択のできる科目が用意されてるんですが、当時まだ英語もあまり話せる状態じゃなかったし、それなら体を動かして何とかなる科目は無いかなと探していたんです。まあ絵とかの美術系にいこうか、音楽系でもやってようか、と意外に軽い感じだったんですけど。音楽の科目の中でも更にいろいろ選ぶことができて、大きくは弦楽器のアンサンブル系、あとコーラスってのもありましたね。そしてマーチングバンド。この中で、とりあえずおもしろそうでやっていけそうだと感じたのがバンドだったというだけなんですね。ですからそれほど積極的に始めたわけじゃなく、必ずしも「これだ!」という感じで選んでやってたわけではないんですね。いくつかある選択肢のなかで、これは自分には合わないなとか、こっちやるんだったらこっちの方がまだいいかなとか、あくまで消去法で、いってしまえば成り行きでしたね。ドラムにたどり着いた理由はわかんないけど、逆にこれはできないなっていう消去した方の理由もたんなるイメージで、自分がそれをやってるイメージが浮かばなかったって言う感覚的なものでした。当然、その後続けていく内に、徐々に魅力が大きくはなっていきましたし、そういった文化的なものを見るチャンスを学校が設けるというのは、日本よりは進んでいて、それは大きかったですね。

●日本ではそういった、文化的なもの、情操教育的なものは優先的には捉えられていませんが、アメリカはその点進んでいるということでしょうか?

それは間違いなくそう感じますね。日本の学校システムでは、学校の裁量以前に文部科学省の方針として、子供の教育に必要なものとは捉えられていないんでしょうね。これは、その後の進むべき道をわざわざ狭めてしまうという意味でいろんな弊害を生んでいると思います。それに、そういった日本で言われているような、国語、算数、理科、社会といったような、所謂「お勉強」の時間を多く持たせたからといって、インテリジェンスな人間ができるとは思わないですしね。アメリカのように、音楽、芸術などの分野に時間を割いて、課外でもそういったものに触れるチャンスをたくさん作る事で得られる知識や経験、育つマインドこそが、本当に実用的な、意味をもった学力を育てることに繋がってると思います。特に日本の教育システムの中から判定のできる「学力」の種類は幅が狭すぎます。人間の能力の30%程度しか計れていないという感じがしますね。一つの経験から導くことのできる応用力であったり、いい物悪い物をちゃんと自分で決めることができる「独自性」であったり、そういう人間に幅を与える教育は間違いなくアメリカ式の方が進んでいると思います。

●現在所属している「Blast!」のメンバーでは唯一の日本人パフォーマーとして活動されているわけですが、その中でプレイしていく上で、やはり自分は日本人なんだなと感じることはありますか?

確かに、たくさんのメンバーの中で、何か自分はみんなとは違うな、という感覚は感じていますし、その思いは「自分が日本人だから」という気持ちが根底にあるんだろうなとは思います。ただ、それよりもまず始めに考えるのは、日本人だからということより、外国人であるということです。Blast!のようなパフォーマンスを成功させていくためには、仲間同士のコミュニケーションが大切になってきますが、その部分では細やかなところで、一つの壁を感じることは有ります。当然、その最初は言葉の壁なんですが、これはどんどん解消されていきますよね。で、有る程度言葉の問題が無くなってきても、文化的な背景に依る壁もあるわけで。そうすると、やっぱり「外国人だから」という思いにはなります。これとは別に、日本人独自のマインドからくる相違も感じますよ。たとえばプレイを続けていくための精神力だとか、調和という物への考え方という意味での「和」の心とか、そういう日本人ならではの違いも強く感じています。ただはじめからこれが「日本人」という感覚から来るものとは全く意識をしていたわけでは無かったと思います。そもそも中学生でアメリカに渡っているので、クリエイトやパフォーマンス、ひいては楽器に魂を吹き込んでいくというような、精神世界的な意識を持つことは難しかったですからね。それよりはもっと単純に、それまで日本で過ごしてきて、日本式の生活の中で自然と身に付いたこと、また自分のそれまでの人生での経験から知ったこと、そしてその後アメリカに渡った後に経験した「外国人」としての経験が、精神的な強さと継続性を育てたんだと思います。ただ、これは日本人に生まれて、日本での生活を経験することで身に付いた「日本人らしい」考え方や常識がもちろん有ったわけで、今思えばそれが自分のなかに有る当たり前の「和」の精神だったのでしょうね。 ですから、先ほどの話しにも関係していますが、あながち日本の教育システム、文化的背景からくるシステムもわるいことばかりではないのかもしれませんね。まあ、これだけ複雑な事ですから、一概にどちらの方がいいとか悪いとかは言えないものだとは思いますが、最近は特に日本人的なマインドの方がよかったなと感じることが増えてきました。「Blast!」のような、多人数での連携が必要な場面ではその耐える気持ち、待つ気持ち、調和する気持ちはどんどん重要度を増してきて、プライバシーやオリジナリティを尊重するアメリカよりは、日本人的発想の方が突き詰めやすいのかもしれない。アメリカ人のプレイヤーは日本人とは違って、まずお互いを理解し認め合うところから始めようという考えは希薄なのかもしれないし、それをしなくてもそれぞれが自分のコミュニケーションバリアを広げても大丈夫な広さがあるんでしょうね。日本ならそんな訳にはいかないですもんね。ただおもしろいのは、そうやってお互いの接点や理解を減らしてしまっても、円滑に、そしてクオリティの高いクリエイティブが行えるような、ルールとシステムはしっかりしていますよね。これはこれでプロフェッショナルな世界だと素直に感じます。

そういったアメリカ的なやり方や考え方に対しては、当然イイ面と悪い面の両面を持っているとは理解していますが、最近は少しネガティブに見ているところが有るかもしれないですね。今世界は混沌としてきているし、戦争も一向になくならない。その原因、発端にはやはりアメリカの存在がありますよね。世界にはいろんな人種がいて、いろんな文化が有って、それは何百年、何千年の歴史の中で築き上げてきた物だし、皆それに誇りと自負と、そして責任を負ってると思うんです。緩やかに変化していくことはあっても、それほど急激に、しかも他人の手によってねじ曲げられる事なんてあり得ない。だとしたら、そういった異種のものと共存し尊重していくことでしか、世界の平和は保たれないと思うし、だとしたらこれは日本人の根底に流れている考え方に非常に近いと思うんですね。

●今現在、パーカッショニストとして活動されているわけですが、過去に、もしくは今までに、なにか他のクリエイトやアートとの接点はあったのですか?

いや、無いですね。一般に皆さんが学校やなんかで、リコーダーやハーモニカを演奏する程度で、あとはサッカーばっかりやってました(笑)。アメリカに渡ってマーチングを始めてからも、趣味としてロックバンドをやったりということもなかったんですよね。もともとガラじゃないんです、実は。今のプレイも、オーディエンスの前でパフォーマンスすること、ルーディメンツをこなすことは、すごくスポーツに近いところがあって、体を動かすという事のなかに共通点が多いんです。あとは昔から数字には強くて、よく数字遊びみたいなことを好きでやってましたね。ドラムは1小節のなかにいくつの音符があって、それを更にいくつに分けることができて、そのグルーピングの組み合わせでどんなバリエーションができる、みたいな数字を使って考えるところが多いので、それらがうまくマッチしたということで、このルーディメンタルドラムっていうのはまさにはまったんでしょうね。ですから、一般的にアーティスティックな分野は、どちらかというとエモーショナルな部分、詩的な感情を形にするために取り組むっていう人が多いと思うんですが、僕のはちょっと違ったんです。数字のパズル的な要素とスポーツのような要素、そしてその中で生まれていく高度なスティッキングの手順をいかに攻略できるかというような楽しさですね。これは有る意味、テレビゲームの格闘ゲームの技をいかに正確に出せるか、っていうあの感覚に近いですよ。おれこの十連コンボ出せるよ!みたいな(笑)。現に仲間同士で、技の出し合いをしてコミュニケーションしたり、お互いのコンビネーションから、また新しい音が出来上がったりってことはありますし、それをみた観客がすごい!って言ってくれることに快感を感じています。
ブラスト「Blast!」
【東京公演】 
7/30(土)〜8/21(日)   Bunkamuraオーチャードホール  

http://eee.eplus.co.jp/
s/blast2005/index.html

●「Blast!」や、今回参加した「Museum」では、ダンス、アート、異なる分野のサウンドと、様々なクリエイトとコラボレーションするわけですが、その係わり方についてはどう感じていますか?

そうですね。いま自分のなかでいろんな活動を通して意識していることがあるんです。それは「共存」、「周りと波長を合わせる」って言うことなんです。たとえば今回で言うと、水墨画、料理、エレキギターとそしてタップダンス。このそれぞれの異なるパフォーマンスを、どうやれば一つにまとめ上げてプラスのエネルギーに表していけるんだろうっていう、これは一つの自分に対するチャレンジ、実験でもあるんですよね。他のエネルギー、要素との共栄、調和です。「Museum」はそれを自分に課してみるチャレンジのプロジェクトという意味合いもありました。しかし、これは「Blast!」やそれ以前の様々な経験を経て今たどりついた心境であって、以前は少し違っていたかもしれません。特に「Blast!」に参加し始めたころは必死でしたし、いかに自分のパフォーマンスのクオリティを高めていこうかということを考えるし、いままでとは違う環境、与えられた空間の中で、どういう気持ちの持ち方をすれば最高のプレイができるのかというところの探求心が強く出ていました。そもそもはじめは、複数いるメンバーの中の一パーカッショニストという立場でしか無かったわけですから、そこから自分の目指すべきポジションを見据えて、そこにたどり着くにはどうすればよいかという戦略的なところもあったとおもうし、もちろん純粋にパフォーマンスやアンサンブルを楽しむということが有ったとしても、自分のこれまで続けてこれた原動力は目標をかちとることでしたね。そのうち、ソロのスポットに入るようになって、パフォーマンスの組み立ての役割を担うようなことも出てきたときに、全体をどうふくらますかとか、自分以外のメンバーを含めてどうみせるかというように、見方がかわってきたんです。その中では、提案や意見の交換をすることでのコミュニケーションも図れるようになったし、作られていく物もタイトになってきたという手応えを感じることができました。構成や演奏内容に変化はなくても、間違いなく出てくる音にハートがあるというような、ショー全体のまとまりというのもここで生まれてきますよね。 はじめの頃の自分をまずアピールするという時期と、全体の成功を考えるようになってからでは、実は後の方が自分のプレイや発言が全てプラスに作用していくんだと事にきづいて、「ああ、これはもっと早くそうするべきだったな」なんて考えることもあります。これは、今まで一方的に発信するばかりだった状況から、周りとの対話をし始めることによってふくらんでいけるというところに移行してきたということなんでしょうね。
●いままさに世界の舞台で、プロフェッショナルのパフォーマンスをしている目からみて、日本の、特に東京を中心とした都市文化や、そのなかにいる若者についてどういう思いがありますか?

まず最初に思うのが、東京という街のユニークさについてですね。東京は世界の中でも、かなり独特の文化やシステムをもった都市だと思うんです。そしてこれは多かれ少なかれ、今の日本、日本人に共通するメンタリティから来ている現象だとおもいます。一つには、日本、特に都市部では、情報の共有化のスピードが驚くほどはやいですね。テレビや雑誌、今ならネットなどから情報を発信していて、これが次の日には大部分の人に共有されている。これがNYなら、人種の違いやライフスタイルの差で、こうも速い速度で情報をシェアすることは難しいんです。僕は、有る一つのことを効果的に成長させて行くには3つの事が必要だと思ってるんです。一つは「環境」、2つめが「時間」、そしてこの「情報」なんですね。そういう意味では、日本、東京の持つこの情報の早さとそこから来る環境の整えやすさは人を良い方向に向けるものとして肯定的に考えています。ただしこの情報や環境は取捨選択の方法を誤るとうまく作用しないですよね。現在の日本人に独創性がなく、本当のクリエイティブを生み出す力が弱まっているとしたら、これはその用意された情報をバランスよく吸収できていないのだと思います。そして、不足しているものはやはりコミュニケーションやそこから得ることのできる調和、協調というものなのかもしれませんね。人間は顔色、声色を確かめ合って様々なものを学んでいくし、せっかく用意された膨大な情報やすばらしい環境も、そういった下地なしには役に立たないどころか、逆に問題を引き起こすことにもなりかねないのではないでしょうか。結局は人と会って話して、お互いの関係を考え、共存する、調和する、これに尽きると思います。その上で必要な要素は日本には揃っているし、これからもいい物は生まれてくると信じています。