常に自分自身と向き合い、物事の本質と根源に立ち向かい、アイデンティティをさらけ出す。
そんな活動をしている、「富士魂」をもった、アーティスト、クリエイター達の声を聞く。
能楽囃子大鼓という、極めて伝統的な分野からは到底説明のできない、すさまじい生き様と、世界での活躍。その内に秘める想いと思想を語って頂きました。常に研ぎ澄まされた「人」としての心の持ち方の根源を感じさせてくれます。
■今回「Museum」に出演をされて演奏されたわけですが、鼓の他にも演奏をされていますね。

ええ。今回はバックにギター演奏とジャンベが入り、普段行っている活動とは違った世界観で演奏をおこないます。私も鼓の他、ボーカルとフルートを演奏します。インデアンフルートと呼ばれる楽器ですね。こういったネイティブアメリカンの楽器や文化にも影響を受けることは多いですし、根底で繋がっているという気持ちは大きいんです。私は1700ccくらいの大きなバイクにものるんです。普段からバイクにはよくのりますし、今度も「満月ツーリング」というのをやるんですが、このバイクに乗ると言うことには、非常に意味を感じているんです。今の時代というのは、どこか平和ボケというか、安全神話にまもられているというか、どこか危機意識が欠如しているでしょう?世界には未だに戦争や紛争をしていたり、今日を生きるのに必死で過ごす人たちもいるのに、日本ではやはりそれを強く感じることは難しい。ライディングの中ではそういった感覚を感じることができるんです。肌を風にさらして、決して安全ではない状態に身をおくことで、人間の血液から本能が呼び覚まされるのだと思います。私のやっている「能」という世界は、そもそも人間の「怒り」や「悲しみ」「喜び」といった衝動を表現する世界なわけです。この激しい打ち込みや気迫は、ある意味で武士の魂といったようなものと重なっていく部分があると思うんです。まさに「諸刃の剣」ということばが有りますが、こういった危険と隣り合わせで常に研ぎ澄まされていたいというのはありますね。

■世界各地を回られて演奏活動を行うことで、自分のなかの日本人観を感じることは多いでしょうか?その中で、他とは違う特別な、日本人観、日本人特有の魂というものはどのようなものでしょうか?

日本というこの土地の位置づけというのに大きな関係を感じます。日本には、極めてはっきりとした季節、四季の移り変わりがあり、そのなかで非常に早い速度で物事のうつろいを感じることが出来るんですね。もっと大きな、例えば宇宙の中にも、生まれ、育ち、そして滅びるといったサイクルがあって、この一種の「滅びの美学」というのは常に物事に係わりをもっている。日本の風土は、そういった物事の起こりと滅びが、特に顕著に知ることができるんですね。元々は中国などの大陸から伝わった、例えば酒や味噌や醤油にしても、最終的には日本でより洗練され完成されたと言うこともありますし、日本の明確な四季が長い時間をかけて日本人のなかにそういった「うつろい」という感覚を熟成させていったのでしょうね。

「能」というのは、自然や人間のなかに根源的にある、「激しさ」や「優しさ」「恵」「破壊」といった全ての要素が含まれているんですね。こういったエネルギーが、われわれ表現者を動かしていく核になっていくんです。例えば「唄い」、声の場合も、能では地声でやるんです。ソプラノだとかテノールだとかいった概念でなく、お互いの地の声同士をぶつけ合い、共鳴させあう。その表現者そのもの、意志表示がコラボレートすることで本当のうねりや揺らぎが目の前に現れてくるんです。そういったドラマティックな展開があって初めて一曲のなかに「人の世」「人生」と言ったものが織り込まれていくのだと思います。楽器にしてもそうなんです。鼓には大きいものと小さいものがあって、これは同じコンディションでは造られていないんです。小さな方は有る程度湿気をもたせてあるんですが、大きい方は常に乾燥させてあるんです。まさに陰と陽の関係ですね。使われている材料も、桜の木や馬の皮といった天然、自然のものですし、これは季節や時間、空間、演奏者の内面まで敏感に感じ取って音色を変化させます。それらの折り重なりは二度とは同じに再現することはできない、まさしく「一期一会」のものなんですね。曲には「愛」のもの、「戦」のものといったそれぞれのテーマがありますし、そこに常に変化する表現者の出会いがある。また、そのばに居合わせ演奏を見る側にも、想像、イマジネーションといった主導権をもって接する。この全てを含めたものが一つのクリエイティブなのだと思います。

■鼓を奏でることと、民俗学的な精神性との結びつきは言うまでもなく大きいとおもいますが、その精度をあげてゆく(入魂というか)のにどのような心構え、もしくは鍛錬が必要だとおもいますか?

これはやはり古きに訪ねる、「温故知新」と言うことでしょうね。やはり、古の生活ややり方のなかに、そういった鍛錬や問題の解決方法というのはかならず見つけられるとおもいますよ。たとえば、旅なんかを考えてもそうで、今のように新幹線や飛行機でいく旅ではなく、リスキーに自分の足でしっかりとゆく。熊野の奥掛けや北海道の原生林に自分の身一つでたどり着く。そういった行動が、日常のわれわれの出会う繰り返しの中での膠着点などは吹き飛んでしまう気がしますね。旅やそこで出会う世界の様々な儀式や様式というものは、自分のなかのこだわりや煮詰まりをリセットして氷解させられるいい機会ですね。ネイティブアメリカンなんかは、季節の変わり目に断食を行ったりするんですが、これがまた味覚や感覚をはっきりと呼び戻したりすることになる。こういった変化を自分のなかに感じてつくっていく、プログラムしていくということは重要です。そういった常軌を逸した状況に身をおくといったことで、ものの本質がみえてくるということがあるのだと思います。 韓国のシャーマンやアフリカ、ネイティブアメリカンやインカなどの、太古からのマインドというのは、それぞれにもっているとはおもいます。それぞれにそれぞれの文化背景をもちながら一つの形になっていき、それぞれは異質の様なものに見えるかも知れません。しかしどこか根底では同じ感覚がながれ共有されていると感じています。是はやはり「人間」とはそういうものであり、そこからは脱し得ないというものなのなのでしょう。そのなかで、やはり日本独特のマインドというものも当然生まれるでしょうし、それはさっき言った日本の土壌や風土が密接に関係するわけですから、日本人特有の魂もあるのでしょうね。

ある時期から、だれが表現してもつねに同じものができあがる、あるいみで連帯感だとか安心感を生んでいるように見えるスタイルが価値をもちはじめますよね。たとえば、日本ではそれは明治以降、海外から流入して現在のデジタルでのクリエイトに繋がっていったりしているわけです。しかし、ある時、それは虚構なのだと気づくときがくるんですね。そこから生み出された、「画一的なもの」を受けて安心するというのは、やはりバーチャルの世界での事なのだと思うんです。本来、泣き、笑い、悲しみ、怒りといった感情は、一つのテーマから複雑に生み出されるもののはずです。受け手によって様々に違って捉えられて良いものなんです。それは、一見わかりにくさでもあるんですが、実は本当の意味での「自由」ということなんです。

現在の情報化社会というものの、部分的には行き過ぎたところには、たしかに危惧を感じることはありますし、それはいつか破綻をきたして崩壊する時がくるのかもしれない。しかし、それらも結局は人が求め追求し、欲した結果なのだし、それを理解している人がいるかぎり、どこかでうまく方向転換をしてゆけるともおもっていますよ。


■現在のいわゆる平均的な若い世代について、伝統と創造という二つの観点からどのように感じますか?また、自分の行動がそういった世代に対してどのように影響を与えるだろうという事を考えることはありますか?

これは問題ばかりではないとおもいますよ。若い年代のほうが、ある分野ではピュアで素直な受け取りから本来の意識をもてると言うことはあるでしょうし、実際そうやって活躍をしてるひともいるとおもいます。決して若いからといって現代風の情報にとらわれているとも限らないでしょうしね。そういった意味では、音楽や芸術と言った分野でも、出来るだけ多くの、ちがった文化ややり方に触れていってほしいとおもいますし、社会はそれを提供していかないといけないのだと思います。西洋式の音楽だけでなく、日本や他の歴史的な音律などに触れる機会をつくってほしいし、絵をかくにしても、太陽が3つも4つもある絵に決して悪い評価を与えないでほしい。若い世代や子供達は、我々の年代よりも鋭くセンサーを張り巡らせているのだから、与える影響は大きいはずなんです。私も多くの学校などで訪問演奏をおこないますが、何かを教えるというのではなく、彼らは間違いなく自分を超えていけるかも知れないとおもって接しています。私が50年かかって得たものでも、彼らは3日で掴んでしまうかもしれない。そういった凄さを人間というものはもっているのだと思いますし、そう信じたいですね。